2014年11月8日土曜日

『m/es』解釈(「現実の出来事の読み換え」によせて)


VOCALOIDオリジナル楽曲制作において大御所とも呼べるピノキオPですが、
なかでも私一押しの楽曲である『m/es』の解釈、
探し方がヘタクソなのかほとんど見つけられなかったので、
とりあえず自分の解釈を晒して誰かの解釈を刺激する足しになればイイなーと思い書いてみました。

なお、解釈に正解不正解はないと思います。刺激できればいいのです。あしからず。
ピノキオPの曲は多彩な解釈を許してくれるところが大きな魅力のひとつだと思います。


◇◇◇


この曲は『不思議のコハナサイチ(以下コハナサイチ)』と対になる曲だと思う。
「現実の出来事の読み換え」によって自分を救おうという点では同じなのだが。二つの曲が、「現実の出来事の読み換え」の良さと危うさを表しているように思える。
たとえば。

悲劇というほどでもない悲しみがずっとそばにある。
それは人に話しても共感を得られなかったり、鼻で笑われたりするようなささいな悩みだとされる、恥ずかしいものだ。
なかったことにしなくちゃいけない…大人げない。いつまでもグズグズと、あほらしい。

そこで考え付いたのは、そんな痛みを覚える出来事を、
リフレーミングどころでなくそれにまつわる苦しい感情自体を忘れ去る、という荒業によって処理してしまう方法だ。
それをこの曲では「手術」に例えている……と考えてみると、悲しい。

施術医は自分だ。魔法の言葉で麻酔をかけて、自分自身を前後不覚に陥れる。手足はまだ動くだろうか。どのぐらいで感覚はなくなるだろう?痛みは感じなくなるだろう?

時が経つにつれ爪は伸びていく。だけど、こんがらがったパズルが解けるわけでもなく。自分のわけのわからない状況を解きほぐせるわけでもなく。
小さくパズルの表面を引っかいてお茶を濁すだけである。

楽しかった思い出は脳裏にひらめいているけど、勝手に脳内で付け足されたこともある気がする。
だけどもう、どれが本当にあったことか思い出せない。チカチカと風景が浮かんでは消える。

縫い付けられた観客の涙腺というのはたぶん、どこか冷静に自分を眺める自分自身のことだと思う。
(他人の涙腺は鈍感だから縫い付けるまでもなく、
無理やりにでも演じればそうそう緩みはしないのだ)
苦しい、悲しい、つらい、その感覚を忘れてしまおうという「手術」はとても乱暴で、
まるで四肢をいびつに縫い付けて、鼓動もいますぐ止まってしまいそうな人体実験さながらだ。
だけど、今日も手術を終えた自分は、「シアワセ」とつぶやいて、ごわごわと筋肉を撓ませて笑う。なぜなら、手術で悲しみも苦しみも、取り去っているから。
怖いものなど何もない!

一方で、そういう方法で生き長らえた自分を、「期待外れに生き延びたゾンビ」と感じているのだから、想像以上に重傷だ。「手術」をするたび、自分の感情を「忘れる」たびに自分を何度となく殺しているように感じていることは、「輪廻」という言葉に象徴される。
そしてその一瞬だけ、自分を誤魔化している自分に気づく。でも殺してしまうから、次に自分を殺す瞬間まで気づかない……

曲の終盤ではもうだんだん自分を騙せなくなってきている、すでに頭と体がバラバラなのだ。
それでも、自分の信じた正しい状態を演じるために、手術は続く。恥ずかしくないように、惨めにならないために。

「ザマミロ」というのは、誰に向かって言った言葉なんだろう?
自分の死を期待していた者に対して?
これも、コハナサイチと対照的だ。あちらの曲に比べ、泣きべそかきながらも上を向けるような明るさがない。むしろ自嘲じみた響きすら聞こえる。

だとすれば、ここで主人公の死を期待したのは、まぎれもなく彼自身だったのかもしれないのだ。これは、誰かに「死ねばいい」と罵声を浴びせられるより、よっぽど恐ろしいことかもしれない。

自分の口から思わずもれでた、まさしく自分自身を呪う言葉は白い部屋中に響き渡る。完全に閉じた自意識のなかで、自ら施した麻酔のために呪いに歯向かう力も湧かない。「ザマミロ」と暗く微笑むことしかできないのだから。

そこに出口はない。